2007年3月 6日 (火)

OUT

この頃あちこちから本を借りていて、昨夜も友達から薦められた本を読んでいた。桐生夏生のOUT。何年か前に出版されたミステリーものだが、とても面白いと英人も言うので(翻訳されている)、借りてみる事にした。日本語版ね、勿論。

物を読みながらいつも思う事だが、作家の作品を書く前のリサーチは研究論文を書く時のそれに匹敵する。なんでだか知らないけれど、歌舞伎町とか置屋とかこの頃やけに水商売づいた物を読まされているのだが、(読まされてるって事も無いけど、私が選んだんじゃなくて人が持ってきてくれる本だから、読まされてるって感じよね)この本も新宿が出てくる。スナックの女とか、なんて言うの、女衒(ぜげん、って読むんだって。へー、知らなかったわあ)とか。で、その人達の生活ぶりとか、どんな女なら売れっ子になるとか、詳細に書かれている。でも考えてみるに、この女流作家がそんな所で働いていた訳ではないだろうし、ま、自分の近くにそういう人がいたのかもしれないけれど、でも結局は自分で色々な人にリサーチかけたんだろうと思う。すごいよね、プロ根性。ま、どんな世界だって天才アマチュアでいる方が凡才プロよりも楽なのよ。

こっちの国にも確かに沢山いるけど、日本人(おやじ)のロリータ好みっていうのは、一体いつから始まったんだろうか?ま、こっちの国のはロリコンと言うより、幼児虐待の変態的なものだけどね。日本のは本当にロリコンでしょ。高校生の制服着てるのが好きってタイプ。おぼろげに覚えているのは、まだまだそんな汚れも無い清い清い高校生活を送っていた当時(...ま、とりあえずね)、地下鉄の駅で友達待ってたら、それこそ仕事一徹風の黒ブチ眼鏡トレンチコートのおやじがのこのこと近寄ってきて、とりとめの無い話を始めた。何だろうこの人、といぶかしく思いながら適当に返事していたら、いきなりこれからどこか行かないかと言い出した。私は本当にその頃世間知らずで、この人もしかしたら道に迷ってるのかしら、とかお金無くしちゃったのかしら、とか助けた方がいいのかも、なんて呑気に思ったりしたのだが、その何秒か後にはっと、ホテルに誘ってるんだ、この人、と察した。私は単に察しが悪いだけだ。その時はね。察したと同時にその場から駆け出していたのだが、後日女子校の友達にそれを話したら、「そう言う時はね、おじさん私高いよ。10万出さなきゃ無理無理、って言うのよ。」と言われ、ショックを受けたものだった。そのショックは、あーそういう手もあったか、というショックの方。勿論私達の時代には、まだ下着売ったりとか援交なんてものは無かったのだが、都内の女子校の中には強者がいたりして、ま、その友達も強者だったわけだ。彼女の弁護の為に付け加えるが、彼女はそう言う事をしていた訳でなく、でも女子校は結構早熟者が多かったりするのだ。

そんな事はともかく、日本人男は何故にロリコンに走るのか。太古の昔からそうだったとは思えないけどねえ。江戸時代の男達がロリコンだったって話、聞いた事が無い。自己の征服欲を果たす為か?それとも優越感を享受する為か。ま、別にロリコンの心理追求をしているわけではないので、ここら辺で終わりしておく。

この桐生夏生の作品のすごい所は、ロリコン趣味からはおよそ正反対の女に惹かれた男を書いた所だろう。そしてそれも普通の出会いではなく。男が、大して綺麗でもなく、なりふり構わない40女に魅力を感じるのはどういう時だろう。家庭はばらばらに壊れ、悲しいとか寂しいとか感じる神経は麻痺し、毎日毎日会話もしない家族の為に食事を作り、生活費を稼ぐために夜勤するような女に男が惹かれるとしたら、それは何故だろう。強さか。男に媚びない強さか。それを男は挑戦に感じるのだろうか。....でも普通、日本の男は(皆ではありません、ちなみに。)女がばりばり仕事したりするとうさん臭く感じるものでしょう。会社なんかにいるとそれが強く出る気がする。大して仕事出来ないくせに、男だからってのを全面に押し出して万能女性社員を邪見に扱うなんて日常茶飯事でしょ、今でも。じゃあ、賢い女はどうする。こういう馬鹿な輩を、さも尊敬してます、私はあなたの足下にも及びません、てな態度でもって、男をおだてて自分の好きな風に操る。そーだよね、そうなっちゃうよねえ。でも、そういう事をしたがらない女はどうすればいい。そーさねえ、アメリカの会社に行くか。

とにかく、この40女に復讐する40男の壮絶な最期は、結局、運命の出会いは避けられないって結論になるのかしら。全く違う世界で生きていた二人がふとした事で出会ってしまう。殺す者と殺される者になり、否定し続けても、最期には自分達が似た者同士だと確信してしまう。それは側にいて暖かいとかほんわかするとかそんな生易しい類いのものではない。男と女が求め合う。頭の中で否定していても。そんな運命ってやっぱりあるんだろうか。どんなに否定しても否定出来ないものがこの世には存在するのだろうか。

....あ〜あ、またやっちゃった。何となくこの本の内容言っちゃてるよねー。でもでも、読んでみないと分らない、この本のすごさ。壮絶だけど、純愛って気もする。

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2007年2月14日 (水)

天国への階段

白川道著。なんかこの間(なのか最近なのか実は全く知らないが、そう友達が言っていた)放送されてたらしい韓国の番組とは違う。

先日友達の誕生パーティがあって、この年齢でパーティもないけどなあ、とか思いながら足を運んだ。同年代から少し上の人達が集まったパーティ。皆日本人。殆どの人がもう在英ン十年って感じ。私にはどの人も初めてお目にかかる人だったが、こんなパーティも結構楽しい。出されていた食べ物も純日本食。中に鮨職人の方もいて、その場でお寿司を握ってもらっちゃって、もう感激。大体私みたいに結構どこに行ってもそれなり適応してしまう人種は、あんまり自分の故郷の食べ物を固執して作らない。そこの土地土地での食材を使ってそこの食べ物をなんとなく自分流に仕上げてしまう。だからと言って日本食が嫌いなのではなく、むしろ大好きだ。だから日本に帰るとそれこそこってりの日本食ばかり作る。ま、そんな訳で、お寿司だってあんまり鮨職人が握ってくれたのは食べる機会に恵まれない。ので、歯にしっかり矯正ワイヤーしているにも関わらず、お寿司を何個も頬張ってしまった。

私はロンドンでお寿司を食べるのは大変だ、という話をしているのではない、ちなみに。そこで談笑しながらふと目を向けた本棚の上の方に、この天国への階段があった。ハードカバーの上下。私はどちらかと言うと本を見るとむずむずしてくる性質で、特に日本語の本となると片っ端から読んでしまう。どこの家に寄らせてもらっても、必ず足が向いてしまうのが本棚。そこで面白そうな本でも見つけようものなら、例えその人が初めて会った人でも厚かましく本を貸してもらえるか訊いてしまう。で、その人はとってもいい人で、いいわよ是非是非持っていって、とその本プラス他の白川道の本を貸してくれたのだ。ラッキー。

よく映画の顛末をぺらぺらと喋る輩がいる。まだその映画を見ていない人達にとってはそういう連中はちょっと側にいて欲しくないだろう。実は私も結構ぺらぺらと喋る方で、否、だったが、この頃は意識して何も言わないようにしている。だからこの本もどう言う内容なのかはここで暴露しない。...........が、私の感想をどうしても言いたい。言いたいから少しは内容に触れてしまう。まだ読んだ事の無い人で、絶対に内容を知りたくない!と思っている人がいたらこの先は読まない方がいいかも。

結局その誕生パーティから帰って来てすぐに本を開け、2日で読み上げてしまった。面白かった。やっぱり賞を受賞する人の作品は人の心をどんどんと話の中に引き込む。しかし、読み終えて遣る瀬ない思いが残った。

本を読むとその国の国民性がうかがえる。(と私は勝手に思っている。)まるっきり簡略化した言い方になるが、アメリカ文学はどちらかと言うと軽い、明るい結末を好む。イギリス文学は堅いもの、スカンジナビアは暗いー色々な意味でー文章が多い。フランスに行くと理解に苦しむものがあったり、ラテン系はどこかお涙ちょうだい的な物が売れたりする。(あまり真剣にこの分析を解析しようと思われぬよう。私の勝手な独断かつ偏見に満ちたオピニオンに過ぎません)で、日本の文学には、古来から自分の感情を極力殺してしかしいつまでも想いを持ち続ける、と言うのが読者に受けるような感がある。私も実はこういう話がとっても好きなのだが、そしてそんな本を読むとついつい感情が入りすぎて、読み終わった後でまるで自分の身の上に起こったかのようにぐったりと疲れていたりする。

誰か良い答えを知っていたら教えてもらいたい。人間は何故自分の手で自らの命を断とうとするのだろう。衝動的。まあそういう場合もあるだろう。と言うか、大方の自殺は衝動的なのではないだろうかと推察する。しかし、どんなに現在が大変だろうと、どんなに目の前に暗黒が広がっていようと、それを否定せず悲観せず、ただただ日々を過ごしていくうちには、良いにせよ悪いにせよ何かしらの変化が見えて来るのではないだろうか。まあ、私もこんなすごいヘビーな話をする程に苦労したとも思えないが、もとい、全然苦労してないんじゃないの、と言われても反論する事の出来ないような生活を送っていたかもしれないが、それでも死を選ぶという人間の心理は理解し難い。極端な話、もうガンの末期で毎日毎日身体中の痛みに耐えきれずモルヒネを通常の何倍と使っても精神的にも肉体的にも極限を越えていて、この苦しみが消えるならと安楽死を願う人の気持ちは分る。私もある意味で、それが違法かどうかは別として、このような状態の人間の中に自ら死を選ぶ人がいるのは当たり前だと思う。

しかし、だ。昔のなんとか心中物語のように、自分の愛情が貫けないのならせめて死後の世界で一緒になろうと自らの命を断ってしまうような類いのものは、それがもし実際に起こったとしたら、どのように思ったらよいのだろう。私に言わせると、死後の世界なんて本当に死後になってみなければ分らないものだし、実際死後に一緒にいられるのかも分らない。もしかしたら、自殺をほのめかした方は地獄に落ちてしまうかもしれないし、あるいは両方共死後には魂が浄化してしまって、そんな煩悩の気持ちなどどこにも無くなってしまうかもしれない。
罪滅ぼしに、と自殺をする人もいる。でも本当の罪滅ぼしは生きて死ぬまでその苦しみを心に抱き続けることでは無いだろうか。目の前にどんな可能性がころがっていようとも、その罪を償うために自分に重荷を課し生き続ける。それでも心の中にある黒いシミは消える事無く、ふとした時に自分を苦しめる。それでも自分は生きなければならない。自分の寿命を全うするまで。ーーこんな生き方の方がよっぽど罪滅ぼしになりそうな気がするが。

昔の武士は腹切りをした。でもこれだって考えてみれば変な習慣ーーとまでは言わないが、すみません先祖殿ーーだ。自分の誇りを守るためとか義を通すためとか、いい訳は色々あるにせよ、例えば敵に追いつめられて、そこで切腹しろと言われたとかなら話も分るが、そうでもないのに、勝手に自分で、もうこれは切腹しかない、切腹すれば解決する、とか思い込んでした方達は、本当に意味で強くないような気がする。どの歴史文学だったか、本当の武士はとことんまで逃げ切る事を考えるとあった。例えその手段が格好の良くないものだったとしても、自分のプライドをずたずたにするものだとしても、逃げ切ってしまえばこっちのものなのだ。生きていればいつか必ずチャンスがある。そんな考えで徳川家康はどれだけの戦を逃げ切ったか。

なんて別に歴史を勉強しているのではない。ただ、どうしても自殺という人間に特有の命の終え方を理解出来ない。愛を全うしたいのなら、その愛を抱き続けて生きていけばいい。精神的にギブアップした時には自然に自己の心臓も止まる。人間なんてそんな物だ。どうしてそれを待たずに自らの命を断つのか。自分勝手?かもしれない。残された人間の気持ちーーはた迷惑とかそんなのも含めてーーは恐らくどうでもいいのだ。どうでも良くはないのかもしれないけれど、でも二の次になってしまえるのだ。自分で自分を勝手に悲劇のヒーローにしたて、ああ、もう自分にはこれしか道がない、とか思い込んで自殺をするのだ。そうか、自殺をする人は自分勝手なのだ。

もし私が悲恋物語とかを書いたら、でもやっぱり最終的には満足感の残るような物語になるだろう。って事は売れないって事か。んー、それでも私は、何があったとしても、天と地がひっくり返ったとしても、お日様が西から上ったとしても(ん?オーストラリアとかって西から登るのか??そんな訳ないか。なんて馬鹿、私って。)自分の人生を全うした物語を書いてしまいそうだ。ま、考えてみればこれも自分勝手な自己満足の世界だな。

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